「夏の椿」

二年前からの“非常事態”のせいで本州の隅っこに疎開していた私は、ある夏の日に東京にいる父に呼び戻された。

「俺は仕事があるからおまえの面倒はみれない。かわりにおまえも仕事をしてくれ」

11才の私に父が渡したのはひとつのファイル。なかには写真と、一枚刷りの書類。写真には、私と同い年くらいの、ひどく髪の長い女の子が映っていた。おとなしそうで儚げで、いかにもお嬢様って感じ。

「お前ならできる」と、根拠もなしに父は言う。そうして仕事の当日、私はすこしの荷物を鞄に入れ、車に乗り都内のある裕福な民家に向かった。

いま、この国は“非常事態”下にある。よって、未成年の外出は一部を除きすべて禁じられている。子供たちはみんな自宅に引きこもってなきゃいけない。ただ、私は公務員である父の仕事の関係上、疎開先の山口ではすこし違う生活をしていた。しかし、緑の多いのどかな田舎と違い、ここ東京ではあらゆる空気が緊迫していて、喉が詰まりそうだ。

「着きましたよ」と運転手さんが言う。私はありがとうございます、とお礼の言葉を口にしながら荷物に手を伸ばす。お屋敷の玄関には誰もいない。出迎えのひとがいるものだと思ったのに。私がぼうっと立ち尽くしていると、車庫入れをすませた運転手さんがポケットから鍵を取り出した。

がちゃ、と玄関の扉が開いた。ただの運転手さんじゃなかったのか。

「スミさん、連れてきたよ。通してやって」

運転手さんが呼ぶと、奥からいかにも「ばあや」って感じの、洋風なお婆ちゃんが出てきた。はいはい、こんにちは、よくきたね、よろしくねとにこやかに私に手を差し出す。すっごい優しそう。山口にいた気の強いお婆ちゃんたちとは違う。

簡単な話だ。このお金持ちのお屋敷には私と同い年の女の子がいる。そのお嬢様の話し相手をするのが私の仕事。住み込みで、食事も服も与えられるらしい。ただひたすらお嬢様とおしゃべりして遊べばいいのだ。お嬢様はたいへん退屈しているから、少しでもお嬢様を楽しませることができるように、と。

多分、父の上司かなんかの娘なのだろう。全くいいご身分だ。

冷房のよく効いたお屋敷のなかを歩く。長い廊下の突き当たり、スミさんがドアを開けると、私の耳に女の子の高い声が飛び込んできた。

「いらっしゃい! 待ってたのよ、遠かったでしょう! 嬉しいわ!」

いきなりがしっと両手を掴まれる。目の前に、真っ白な肌に真っ黒な髪の、瞳の大きな女の子。私にぐいぐい顔を近づけている。な、なんだこれは。瞳はきらきらと輝いている。

私のふくらはぎにヒヤッとした感覚が走った。手を掴まれたまま自分の脚を見ると、それは長い長い女の子の髪だった。あんまり近づくから彼女の長い髪が私の脚に絡んでいたのだった。

すっかり呆気にとられていた私はその感触ではっと我に返り、たぶん青ざめながら、「は、はじめまして……伊勢崎チズです」とやっと口に出して挨拶する。と、ぱっと私の手を放し、女の子は一歩下がってうやうやしくお辞儀をした。「はじめまして、私が池田椿です。よろしくね!」

写真の印象とは打って変わって、なんだか演技がかった、騒々しい感じの子だな、と思った。大丈夫かなあ。私は年寄り受けがいいばっかりのおとなしい子供で、こういう子ははじめてだ。うまくやってけるかな……。

椿は広い部屋をぐるぐる歩き回りながら喋り始めた。

「もう、とにかく外に出られないでしょ。すっごく退屈! 家中の本も全部読んじゃったし、だいたいの遊びはやり尽くしたし、とにかく話し相手が欲しくて欲しくてたまらなかったの。パパに頼んでよかった!」

パパ。パパね……。そうやって親を呼ぶ子をはじめてみた。ほんとにいるんだ。ちょっと醒めた気持ちの私をよそに椿は喋り続ける。

「まさか家から出られる子がいるなんて思わなかったから、あなたに会えて私ほんとに嬉しいわ! 外にいたときのお話、たくさんきかせてね」

椿の“話し相手が欲しい”という願いのために私がこの屋敷に来ることになって、せっかく外にいた私がまた家に閉じ込められることになったってことを、……椿はわかってないんだろうなあ。どうもさっきからいろいろ気に障る。でもこれも仕事だ、生きてくためには仕方ない。

「私も会えて嬉しいよ、これからよろしくね、椿」

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