「保健室の人さらい」

私は、正義の味方になりたかった。

私は幼稚園の頃から、女の子なのに戦隊ヒーローものが大好きだった。理由は、彼らが”正義の味方”だから。女の子たちが戦うアニメもあったけど、ピンチなときにタキシード姿の男に助けてもらうのが気に入らなかった。正義の味方はあくまで正義の味方であり、余裕を持ってにこやかに、さっそうと、弱者を救いださねばならない。

空想の世界には、正義の味方がたくさんいたので、小学校に入ってからの私はひたすら図書室で正義の味方が登場する本を読み続けた。そのうち、すこし学年が上がり、いろいろなことが分かってくるようになると、「正義」というものもあんがいむつかしく、定義のあいまいなものなのだと思うようになった。

その頃、世間を震撼させたある宗教団体があった。その幹部たちは恐ろしい殺人事件など複数の事件を起こしやがて逮捕されたのだけど、彼らが怪我をしたり病気になればちゃんと病院に連れて行き治療するということに、私は疑問を感じた。悪者が怪我をして血を流していても、いちいち手当てする必要はないんじゃないか。ましてや人殺しなんて。……警察は「正義」か? 正義とは何だろう。

小学校五年の冬に私は内臓の病気にかかって短期間入院した。そのときは、「正義の味方」なんてことも忘れて、はじめての病気と入院に不安になり落ち込んでいたのだけど、小児科病棟で過ごす入院生活のなかで、普段は見ることのないワイドショーをみていた私はとあることに気付いた。例の宗教団体の容疑者たちは「被告」となり、裁判の様子や事件の背景が延々と報道されていた。

――「正義」のひとつのかたちは、医療なのではないか。誰でも皮膚を切れば血が出る。最後には死ぬ。病気や怪我は、子供でも老人でも、悪だろうと正義だろうと容赦なくふりかかる。それを医学の力によって治療したり、手当てする医療従事者こそ、現代の、現実の、ほんとうの世界における、一種の”正義の味方”なのではないか……。それが善人であるにしろ、人殺しであるにせよ、血が流れる怪我をすれば誰でも痛い。病気にかかると苦しい、つらい、ほおっておくと死んでしまうこともある。それは人間みなすべて同じだ。それを助けるのが、医療従事者だ。

そんなわけで、無事手術を終え退院し、受験を終え、中学生になった私の将来の夢は看護師だ。

◆◆◆

私の通う中学では生徒会をはじめとする各種委員で構成された委員会があり、その他に部活動への入部、またいわゆる帰宅部も認められていた。私は保健委員になることを選んだ。養護教諭の近松先生は、数年前まで救急医療の現場の第一線でバリバリに活躍していた看護師だった。年齢は教えてくれないけど、見た目は若く、感じのいいひとで、私は看護師という職業に対する憧れと、近松先生に対する好意を同化させながら、毎日、保健委員の仕事に励んでいた。

先生にはお客さんが絶えなかった。当番の日は、中休みと昼休み、そして放課後は保健室で雑務や来室者の対応をするのが保健委員の仕事だ。その中休みも、昼休みも、保健室に行けばちょくちょく来客があって、訊けば近松先生の昔の知り合いだとか、同僚だとか、お医者の先生とか、卒業生など、私は保健室にこんなにお客さんが来ているだなんて知らなかった。いつもひっそり静かで、時間のとまったようなイメージを持っていたからだ。

その日のお客さんは卒業生で、私が保健室についたころにはもういなかったのだけど、お土産に大きな花束を残していった。なんでも花屋の娘さんだそうで、たまに訪れては花束をお土産にくれるのだという。

その日は三年生は午前のみで下校、ニ年生の保健委員は社会見学らしく、当番の委員は一年生の私しかいなかった。先生は私に、

「ちょっと大仕事だけど、職員室の入ってすぐの棚に大きな花瓶がしまってあるから、持ってきてくれる?分からなかったら教頭先生に訊いてみて。それから、水を汲んで、花をいけといてほしいの。あとで私が整えるから、とりあえず花束の包装といたら、花の茎はゴムで束ねてあると思うから、そのまま花瓶にさしとくだけでいいよ。ごめんね、ちょっとわたし用事があって、図書館に行かなきゃいけないの。お願いね。」

私は緊張しつつも、わかりました、と返事をした。うなずいた時、私のショートカットの髪がゆらっと揺れたので、なんとなく私は不吉だと思った。こういうときはいつも、二年か三年の先輩が手慣れた手つきでぱぱっと準備してくれるのだ。しかし、きょうは人手不足。私しかいない。ただふわふわした花束の紙の包装をといて、花瓶にそのまま活けるだけだ。失敗しないしない。花瓶を割ったり、水をこぼしたりだなんてしないしない。私は自分に暗示をかけた。

◆◆◆

――父親と連絡が取れない。今回は、どうしよう。すこし厄介なのではないか。

私はとりあえず保健室のベッドで休憩しながら対策を練ることにした。今日ならまだ間に合う。――

きょうは先輩たちはいないし、文芸部の部室に寄る必要もない。私はおさげを揺らして、すこし小走りで保健室へ向かっていた。

◆◆◆

どん! という衝撃とともに、ばしゃっ、と水のかかる音がした。

私の心臓はきゅっと縮んだ。抱きかかえた花瓶を、さらにぎゅっと強く抱いた。

「わ、わあ!!」

私の目の前で、二本のみつあみの先から水滴をぽたぽた垂らしながら、濃紺のカーディガンを着た、びしょぬれになった女の子がぽかんとした顔で立ち尽くしていた。花瓶さえ割ってはいないものの、保健室に駆け込んできた彼女とぶつかって、その勢いで彼女に水をかけてしまったらしい。えっと、えっと、この子は、確か……。

ばたん!

花瓶を抱きかかえたままの私の前で、びしょびしょの女の子は倒れてしまった。

そうだ、文芸部の……いかにも文学少女って感じの、黒崎さんだ! 私は名前を思い出してから、ハッとした。いけない、ええとまずベッドに運んで、いや着替えさせるのが先かな、ええと私の体操服、いやそれより先にタオルタオル、ええと、とりあえず急げ!

◆◆◆

とりあえずおろおろしないように一切の無駄な迷いと動揺を断ち切って、黒崎さんの髪や制服をタオルで拭い、ベッドまで運んで、それから私の体操服に着替えさせて、またタオルで拭いて、備品のドライヤーを持ったまま……そこまではてきぱきとできたんだけど、私は固まっていた。花瓶の水は黒崎さんの髪にもしっかりかかってしまい、ぬれた髪を乾かそうと黒崎さんのおさげをといたはいいものの、いまドライヤーなんて使ったら、気を失って倒れてる黒崎さんにうるさいんじゃないか。というか、倒れちゃったけど、大丈夫なのか。でも濡れたままだと風邪をひきそうだし……タオルでは何回か水分をとったけど、黒崎さんの髪は長くて、それに普段はおさげ髪だから分からないけど、ウェーブのかかったロングヘアはボリュームがあって、濡れてしまったせいでずっしりとしている。ちゃんと乾かすには、やっぱりドライヤーを使ったほうが……。

ああ、もう全然だめ。わかんない。判断ができない。というか、先生に頼まれた花瓶を割らなかったのはよかったけど、よりによってひとさまにぶつかって水をかけてしまうだなんて、しかもしかも、そのせいか知らないけど黒崎さん倒れちゃったし、私もうほんとに駄目だ。正義の味方? 看護師?駄目だ駄目だ。むしろ私が危害を加えている。ぶつかって、痛かっただろうし、水冷たかっただろうし、倒れちゃったし、風邪ひいちゃうかもしれないし、勝手に私の体操服着せちゃったけどなんかいやかも知れないし、ああもうほんとうに、駄目だ。ごめんなさい。

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