「美醜と少女」

歩いていたんです。ガソリンスタンドでした。読めない名前が書いてあるんです。お好み焼き屋さん。
私は夕方を歩いていたんです。むこうから中年の女性と、背の低い女の子があるいてきました。女の子は高校の制服を着ています。

背がとても小さい。なにかが、歪んでいる。ひしゃげた顔で、でも笑っていた。その母親も笑っていた。
恐怖しました、だって そうです運動会です。あの女がいったから。くやしくてくやしくてどんなに泣いたか。ころしてやる、なんて思わない。もうとにかく過ぎればいい、なにもかも過ぎ去ればいいって 堪えて耐えてじっと 動かなかったんです。トイレにも行けなくて、ご飯もたべてなくて。体中まっさおでした。
私は 小さいその同級生を軽蔑し、嫌悪し、疎んでいました。だって、当たり前です。童話や子供向けの絵本に出てくる悪者は、いつでもみんな 顔が醜く、そばかすがあったり 鼻が大きすぎたり、ひしゃげていたり太っていたりしていましたから。
私は 自分の好きなシンデレラの絵本の、継母といじわるな姉達の顔を油性マジックで真っ黒に塗りつぶしました。だって気持ち悪い。こんなに綺麗な金髪と青い目をして、ふわふわで白いドレスを着ている女の子の話なのに、この私のお気に入りな本に 醜く醜悪なものがいるのが許せなかった。だって、本を閉じると、右のページに描かれている醜い継母たちと、左のページで泣いているシンデレラが密着してしまう。ああ、気持ち悪い。シンデレラにまであの醜い顔、そばかすの黒い点が移りそうだ。
他の絵本でも、たいていの悪役は 目が小さく、出っ歯であったり、そばかすや変なイボを顔につけています。それこそが醜さ。主人公の聖なる少年少女は 瞳大きくかわいらしく、清純でいます。
だから、醜いものはぜんぶ 醜いこころを持っているはずで、だって母がその絵本を買って読み聞かせてくれたんです。大人のいうことは正しいでしょう?
学校の先生も、クラスでいちばんかわいい子にだけは 忘れ物や、騒いでいるのをみつけても、困ったような笑顔で甘く見逃すのです。それは、その子が美しい顔を、すがたをしているからです。美しい子は、正しいのですから、みんなに好かれる。私たちのなかで、そのことで騒ぐ子はいませんでした。みんな、醜いものは悪で 美しいものが正しいのだと知っている。……学校の図書館に初めて入ったときはびっくりしました。いままで母が買い与えてくれた本はそれなりの量でしたが、それをはるかに凌ぐ量の絵本、児童書など いろいろ置いてあるのです。
同じタイトルだけど、大きさも装丁も絵も文章も違う「シンデレラ」を見つけたので、図書カードにエンピツで 学年、クラス、出席番号、名前、貸出日と返却日を書いて図書委員さんに渡して、学校の裏庭のコンクリートがでばっているところに座って読みふけりました。
このお話でも、やっぱり継母と姉達は 醜く、ドレスの色も趣味の悪い、紫や緑、黒で、また肌の色から顔つきまで、ほんとうに醜くて、吐き気さえしてきました。ああ、かわいそうなシンデレラ。私は持っていたエンピツのことを思い浮かべましたが、これは学校の本だから、書き込んだり汚してはいけない。あぶない、うっかり いつものように 顔を塗りつぶすところだった!
教室に戻ると例の小さい女がひとりで座っていました。おんなのこ、だなんて かわいい言葉を、この醜い女に使いたくない。なにか変な声をぶつぶつ漏らしながら、ノートに文字を書いていました。
みたくないのに、視力はそんなにいいほうでないのに、その女の 皺くちゃの指、鉛筆を必死に掴む、奇妙に歪んだ手。――ああもう、我慢ならない! なんで同い年のはずなのに 皺くちゃなんだ。皺、皺はだめだ。


保育園のころに、老人ホームに行ったんです。ほかのみんなは 恥ずかしがりながらも 年をとった人とわいわいやっていましたが、私はずっと隅っこにいた。皺皺で醜い。シミがいっぱいあって 頭髪も真っ白で、気持ち悪い。
だって私の母は 毎朝鏡の前で、「皺がふえる、嫌」「シミは嫌」と必死に唱えてお化粧しています。母があんなに嫌がっているのに、私の母は毎朝あんなに化粧をしているのに、なんでこの老人たちは 臆面もなく醜い顔を晒すのか。
ひとりの老人の女が私のほうに近づいてきて、手をさし伸ばしてきました。私は咄嗟にトイレの個室に逃げ込み、奥歯をぎゅっと噛んで とにかく過ぎるのを待ちました。珍しく、個室の中に鏡があったので、私はそれを覗き込み、じぶんの顔を確認しました。
シミはない。皺もない。白髪もない。そばかすも、変なイボも黒子もない。汚れてない。
そこで、鏡に向かう自分の母を思い出したんです。「皺は嫌、シミは嫌……」 毎朝、ほんとうに泣きそうにつらく母が言うから、私はいつも「お母さんの顔と私の顔を交換していいよ」と云うのですが、一旦目を丸くしたあと、苦い顔で「アンパンマンじゃないから、無理だよ。」と言うのです。無理。母が、親が大人がそういうのなら無理なのだろう。母はきょうも痛そうにお化粧の水を叩き込んでいる。頬を叩く、ぺちぺちという音。醜くなるのをさけるために、自らの顔を叩くだなんてあまりにかわいそう。いつも後ろから抱きつく。邪魔になるのは分かっていても。
それでずっと思ってたんです。行かないでください、……それで、母の妹だというひとが きゅうに深夜に私の家にきたことがあったんです。女の人なのに、タバコのにおいがした。私はものすごくびっくりして、叫んだ。そしたらそのおばさんはタバコに火をつけて、まるで男みたいに煙を吐き出した。女の人はタバコを吸わない、吸っちゃいけないんだとずっと思っていたのに。私の叫び声で母が起きてきて、大人の喧嘩がはじまった。わたしは襖の隙間からずっと見ていた。顔を真っ白に塗りたくり、におってくるような飛んできそうな粉をつけ、奇妙な色でまぶたを塗り、唇は毒々しく赤く、異様なにおいがする女と、綺麗な、真っ白なわたしのお母さんが、言い合いになっていた。美しいのは、お母さんのほうだ。だからお母さんが必ず勝つ。ぜったいに。
私は小さな手を、つよくつよく握り締めた。爪を切るのを忘れていたせいで、すこし血が滲んだ。
醜い女が何かをつかんで投げた。母はよけて、私のふすまのすぐ近くに座り込んだ。そのときに、手が届くほど近くにある母の髪に、私は白髪を見つけてしまった! 首筋と、目尻にも皺があった。額にも皺があった。皺だらけだ。頬には茶色いシミ。いつもきれいな髪はぐしゃぐしゃに乱れていた。口からもへんな匂いがした。
どっちも醜い。じゃあどっちが勝つのか。どうやってお話が終わるのか。
それで、ガソリンスタンドで あの母親と 小さく醜いのに、まだ生きている女をみて、 私もうすっかり忘れてたのに、せっかくやり直してて、いい感じになってきたのに、あの醜い女が。平然と笑って、幸せそうに生きている。おかしい。
私はとびきり美人じゃないけど、醜くもない。標準的な顔です。あ、それじゃ いつも 正しいのか悪かわからない。ねえどっちなんでしょう。


そうですか。安心しました。……いいですか? そう、それで母が座り込んで 頬から血が出ていたんです。醜いたばこの女が投げたものが顔に当たったんだ。灰色の肌に 濃い赤がどろどろひろがっていて、ちょうど唇にとどまって、醜い女と一緒になった。
「あら。久しぶりね。名前忘れたけど、あんた知ってるよ。赤ん坊の頃に見たからね」
醜い女が私に話し掛けてきます。このひとは何を言ってるんだろう? 私はいっさい知らないのに、醜い女は私を知っている? 醜い女は私に近づいて、顔を覗き込んでくる。
「まあ、姉さん似ね。……あんたに罪はないけど、同じ顔してるとやっぱ嫌だわ、子供の頃の姉さんとそっくり。まだ、旦那に似てたほうがかわいげがあったわね。……しっかし、久々に会ったけど老けたなあこの女。皺だらけだ。ねえ、あんたほら見て、このお母さん汚いよねえ、ホラ」
女の言葉は、私の耳を通って、通ったけど反対側の耳から真珠か涙のようにぽろぽろ落ちていったんです。あとで分かりました、そのとき私は泣いてた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、ひっきりなしにまるいものが落ちていく。
「あんたはまだ綺麗だね。まあ、この肌! お餅みたい。やわらかあい。ふふ。でもねえ、あんたも年取ったら 目の前のこのお母さんみたいになるのよ。悲劇だねえ」
女の指が私の頬と首と髪を触れて、私は目から耳からぽろぽろ落としてて、母はもう何も言ってないし 動いてない。寝たのかな?
気を失ったのかな? ふすまにもたれかかるように、ずるりと 髪の毛が乱れている。ああ、真っ白なふすまに黒い髪が墨みたいに張り付いてて、綺麗だな。

もどる